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千葉地方裁判所 昭和59年(わ)992号 判決

主文

被告人を懲役六月に処する。

この判決が確定した日から四年間右刑の執行を猶予する。

右猶予の期間中被告人を保護観察に付する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、塗装業を自営し、その仕事の必要上昭和五四年ころ普通貨物自動車を買い手元に置いていたものであるが、

1  公安委員会の運転免許を受けないで、昭和五七年一一月八日午後一時一〇分ころ、仕事で現場へ出向くため千葉県船橋市西習志野二丁目一九番三号付近道路において、普通貨物自動車を運転した、

2  前記日時ころ、業として前記自動車を運転し、前記番地先の交通整理の行われていない交差点を習志野台方面から芝山方面に向かい直進しようとしたが、同交差点の、とくに左方には立木・制御器等があるため見とおしが悪かったのであるから、徐行しながら左右道路の交通の安全をよく確認し必要に応じて直ちに停止できるようにして進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、徐行して左方道路の安全確認を尽くす措置をとらず漫然時速約二〇キロメートルのまま進行した過失により、左方道路から進行してきた春田直秀(当時七二年)運転の原動機付自転車に自車を衝突させて同人を転倒させ、よって同人に入院加療約二か月間を要する右足関節開放性脱臼骨折等の傷害を負わせた

ものである。

(証拠の標目)《省略》

(法令の適用)

一  罰条

1につき 道路交通法一一八条一項一号、六四条(懲役刑選択)

2につき 刑法二一一条前段(懲役刑選択)

一  併合罪加重 刑法四五条前段、四七条本文、但書、一〇条

一  執行猶予 刑法二五条二項

一  保護観察 刑法二五条の二第一項後段

一  訴訟費用の負担 刑訴法一八一条一項本文

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、判示2の事実につき、本件交差点へ差しかかった際の被告人車には徐行義務はなかったと考えるべきであるから、無罪であると主張している。すなわち、本件事故の発生した交差点は、道交法四二条で徐行義務があるとされている「見とおしがきかない交差点」にあたらないし、仮にあたるとしても被告人車の進行道路は交差道路よりも明らかに広路であるから優先通行権があり徐行義務はない、とくにこの交差点は電車軌道の踏切を越えて直ぐのところにあるから、そのような場所で徐行を求めるのは実際上少し酷ではないか等々というのである。

(1)  しかし、まず、本件交差点は、被告人車の進路上の、交差点やゝ手前の位置からみて、被害者車両が進行してきた交差道路左方向の見とおしが悪かったものと認めるのが相当である。このことは、事故当日の実況見分実施時に撮影された現場付近の写真上に見とおしを妨げる木立・制御器等が写っている様子から一応認め得る。尤も、本件では、何故かそれから二年近く遅れて起訴がされるというように事件処理手続が大巾に遅れたため、起訴後その点に疑問を懐いた弁護人らが事故現場へ出向いて見分した時点ではすでにその間に問題の立木等が切り払われ消失してしまっていて、結局、本件事故当時の見とおし状況を直接正確に再現確認することができなかった事情にあり、しかも、事故当時の現場の見とおし状況を伝える唯一の写真である前記実況見分調書添付のものは、現時点で見れば、右のような問題意識なしに撮影されたためかその点の解明をはかるのに十分でないうらみがあることを否定し切れない。しかし、とも角、右写真によっても、交差道路左方向の線路に沿って木立がかなり密生しており、他に制御器二台、柵等が設置されているために左方向の見とおしがきかない状況であったことだけは否定し切れない状況にあると認められる。そして、被告人が検察官調書中でも当公判廷でも、ともに、本件交差点では、先に交差道路の右方向を見、自車進路に近く、通常先に見そうな左方向をあとで見たと言い、しかも右方向の様子に較べて左方向の様子についての記憶が曖昧であることなどは、現場の状況が前記のとおりであったことを裏付けているものと感じさせられるのである。そうしてみると、本件交差点は道交法四二条にいう、見とおしのきかない交差点であって、同所通行車両にとっては、原則的に徐行義務がある場所にあたっていると考えるのが相当である。

(2)  ところで、見とおしのきかない交差点へ進入する車両のうち、明らかな広路を進行して進入する車両についても徐行義務があるというべきかどうかについては若干検討を要する問題がある。すなわち、昭和四六年法律第九八号による道交法の一部改正前には、優先道路を進行して進入する場合だけでなく、明らかな広路を進行して進入する場合にも、直ちに停止することができるような速度にまで減速する義務があるとは解されないと判例上解されていた。ところが、前記一部改正によって、同法四二条一号において、明文上優先道路を進行して進入する場合についてのみ徐行義務がないと規定され、明らかな広路通行車両についての徐行義務は免除されなかったため(優先道路の範囲につき同法三六条二項参照)、その反対解釈として、明らかな広路を進行して進入する場合については、優先通行権はあるが徐行義務は免除されないこととなったと読むのが文脈上は自然と考えられることとなった。換言すれば前記判例上の解釈がその後の立法によって改められたと解すべきものと思われるのである。前記判例のような解釈は、通行量の多い市街地の幹線道路を走行する車両が横丁と交わる都度徐行しなければならないとするのは、当時の道交法の定めのもとでは円滑な交通を阻害して実情に合わないとの考えを基盤としていたと思われ、そこにはそれなりの理由があったのであるが、右一部改正後は、優先道路指定の方法に若干の手直しを加え、道路標識による優先道路だけでなく交差点における中央線の表示等によって優先道路の表示を明確に行い、円滑な交通を阻害する右のような事態の発生を防止するとともに、交差点においていずれの道路が明らかな広路といえるかをそれぞれの道路を進行する者らの判断に委ねることから生じる混乱、その結果生じる出合い頭の事故を避けようとしているように受け取られるのであり、そうだとするとこの考え方は基本的には合理的なものとして十分納得できるところと考えられるのである。実際、明らかな広路といえるかどうかの判断は、双方道路の通行者にとって一義的に明白ではなく、交差点の現場でこの点をめぐる混乱が生じないではなかったし、また明らかな広路であっても、徐行義務を免除するのが適当な広路かどうか当該道路の交通条件によってまちまちだという一面もあり、それらの点を交差点ごとに個々的に検討するのがより適当だと考えられる事情も存したからである。そうすると今後に残された問題は、道交法改正の右の趣旨が現実的に生かされ、交差点のうち実質的に徐行義務を免除する必要があるような場所について、中央線の表示等による指定が適切に行われているかどうか、そのこととの関連で、右の道交法の一部改正によって前記判例による解釈が全面的に改められたと考えてよいかどうか、例外を考えなくてよいかどうかの個々的検討を要する場合が残ると考えるのが適当ではなかろうか。

(3)  ところで、本件交差点には、中央線の表示による優先道路の指定等はなされていなかったから、被告人車に本件交差点での徐行義務がなかったと言うことはできない。あるいは中央線の表示等をすべき客観的道路事情があったのに手続上の手落ちでその表示がされていなかっただけである等の特別の事情があるかというのにそうした事情も証拠上見当らない。本件の場合、被告人車の進行していた道路と、被害者車両の進行していた交差道路とを比較すると、被告人車の進路巾は五・四メートル~五・〇メートル、被害者車両の進路は二・八(一部三メートル)メートル~三・〇メートルであって被告人車の進路の方が基本的には広かった。しかし、被害者車両の進路は交差点に接する部分で急に広く開口しており、被告人車の進路からは一見してその進路が誰にとっても広路と明らかに認めうるかどうか疑問の点があるほか、被告人車の進路が広いといっても所詮は、双方の道路とも片方が市街地の幹線道路等に準じる交通量をもつ道路であって、その通行車両に徐行義務の免除を認めなければ交通の円滑が阻害されるというような性質の道路ではなく、むしろ高速走行に却って危険が伴うような類いの道路と見られるのであって、双方が徐行して出会い頭の事故を避けるよう注意することが、実際上必要、かつ適切な交差点と見られるのである。してみると、本件交差点で被告人車に徐行義務を免除すべき必要性はとくに認められない。

なな、弁護人は、本件交差点が電車軌道の踏切を渡り切ってすぐの位置関係にあたっていることから、そのような道路の進行車両に徐行義務を負わせるのは酷であるとも主張している。しかし、徐行義務を負わせるといっても、何も踏切上での一旦停止を求めたりするものではなく、交差道路の見とおし状況に対応した徐行を求めるだけのことにすぎない。踏切通過に際して運転上の緊張増加を伴う一面はありうるであろうが、踏切を渡り切った先に踏切り沿いの道との交差点があるという場所は我国では少なくなく、その道路の通行車両との衝突事故回避についても極力配慮しなければならない現在の道路事情のもとにおいては、事故防止のため、右程度の運転上の義務履行はやむを得ない、換言すれば、踏切り沿いの交差点であるからといって、その交差道路に対する徐行程度の安全配慮を不要とするわけにはゆかないのではないかと考える。

(3)  ところで、以上の徐行義務は、直接的には道交法上の義務について言いうることであり、このことと業務上過失致死傷事件における注意義務としての徐行義務とは全く同じではない。しかし、本件の場合には、被告人車について、見とおしの悪さに対応できるような徐行注意を実質上欠いていたこと、そして被害者側の過失の方が大きかったとは言えるが被告人にも前記注意義務違反があって、それが事故発生の一因となっていることを否定できないと考えられる場合なので結局判示事実を否定することはできないと考えるのが相当である。

(量刑理由)

被告人は、いずれも無免許運転により、(1)昭和五四年五月、懲役四月(執行猶予二年)、(2)同五七年二月懲役五月(執行猶予四年)の刑に処せられており、本件犯行は右(2)の判決確定後まだ八か月位しか経過していない近接した時期に反覆されている。自己所有車を手元に保有し、他方に仕事上運転の必要性が有するということになると、その間かなり常習的に無免許運転を続けていて、その一部分がこうして発覚したのではないかと感じさせるものがある。判示事実2の主たる過失は被害者側にあったと認められるので、この件を量刑上重視することはしないが、判示事実1のみを理由として実刑に処せられてもやむを得ないと考えられる域にまで達していると考えるのが通常であろう。ただ、どういう訳か明らかでないが、昭和五七年一一月に警察での捜査手続がなされたと見えるのに、検察官のもとでの取調は同五九年夏になされており、その結果同五九年九月末の本件起訴までの間に二年近い期間が経過してしまっていて、犯罪の軽重、予測刑期等からみてはなはだ時機を失してしまっているのである。その間に被告人の身上にも変化があり、現在では車を手放し、友人と共同で車なしに仕事をしている状況になっているようであることその他証拠上認められる諸般の事情を考えれば、本件に対しては主文掲記の刑にとどめるのが適当であろうと考える。

そこで、主文のとおり判決する。

(裁判官 秋山規雄)

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